7月15日、羽黒山頂で花祭がひらかれました。
天気が心配でしたが、
・・・案の定、スコールのような大雨に降られましたが
ふしぎと例年、御輿が繰り出す頃には、やむんですよねぇ。
この暗い写真は前日14日、夕暮れ時のもの。
こうして羽黒山麓の門前町・手向の軒先には
写真のような注連縄(しめなわ)が張られます。
宿坊街の端から端まで、これが連なってるのを見ると
あたりに厳かな雰囲気が満ちていくのを感じます。
その中に、活気あるお祭りのムードもしずかに脈打ってるんですよね。
さて一夜明け、花祭当日。
朝から羽黒山山頂に地域の芸能集団が集ってきます。
祭に奉納されたのは、櫛引町の黒川能や
羽黒町の高寺八講など。
さて同じ頃、三神合祭殿の前では
御輿(みこし)の準備が進んでいるはず・・・。
いらっしゃいました。
地元手向(とうげ)の若者たちが、松例祭と同様、この祭の担い手です。
彼らの手で担がれる三つの御輿は三基。
この三は、もちろん出羽三山の三。
それぞれの御輿が三山の一つとされてるんですね。
三山の神霊がそれぞれ三つの御輿に移される・・・
そう、つまりこの花の御輿は神霊が降りてくる依代(よりしろ)なのです。
そこで、御輿に飾られたいくつもの造花は
「田に置くと豊作がもたらされる」、とか
「家の入り口に吊るすと悪霊に対するお守りになる」、と考えられました。
だからこそ、祭には遠く関東からも足を伸ばす方多く
御輿が鏡池をねりあるくときクライマックス、人々は御輿の造花をわれさきにと奪い合います。
山頂はあたかもカオスの様を呈し、さまざまな紙面を飾るのはこのときの写真です。
今日、花祭は、こうした豊作祈願のお祭りとされているのですが
時代を遡ってみれば、「夏の峰」の主要な祭礼でした。
「夏の峰」とは何か。
羽黒修験道に存在した、春の峰から冬の峰まである
四季の儀礼期間の一つです。
その期間とは、四月三日の月山山開きに始まり、八月八日の御戸閉めまで。
つまり、長い夏峰中の大きな高揚点が、花祭だったわけです。
さて、夏峰で行われていたことは何か。
実に、山の花を摘み、供えることでした。
月山権現に花を供えることが、夏峰の中核をなす儀式でして
夏峰は別名、花供の峰(はなくのみね)と呼ばれていたのです。
そのクライマックスとして、月山では
採燈護摩(さいとうごま)―つまり盆の灯をともして
祀られない死者のための施餓鬼(せがき)―が行われていました。
つまり死者供養が行われてたのですね。
死の穢れを嫌う神社で、こうした儀礼が行われることは
考えてみると、実に驚くべきことです。
これは、仏教的な施餓鬼や神道的な死の忌避という考え方の底に、
もっと根源的なものがあったことを示しているのでしょう。
おそらくそれは、死者の霊は山へ行く、という山岳信仰なのではないでしょうか。
とても古い信仰が、修験道の中に生き続けていたことを
花供の峰=夏峰は伝えていると思います。
明治の神仏分離以降、春の峰と夏の峰の伝統は途絶え
今日残っているのは秋の峰と冬の峰のみとなりました。
花祭から夏峰の死の要素が消え、豊作祈願となったのも明治時代。
同時にこの祭から死霊の休息する山・月山の影も見えなくなりました。
けれど、豊かな実りをもたらす力がどこからやってくるかを考えるとき
そこから流れ出す豊富な水とともに、先祖と死霊の眠るこの山が
黄金なす田の背後に屹然と浮かび上がってくるような気がします。
今の花祭があるからこそイメージされる、羽黒修験の深い世界観。
そんなことを感じた今年の花祭でした。