山形県は最上、置賜、庄内と三十三観音霊場が三つあり
あわせて出羽百観音のある珍しい土地です。
中でも庄内三十三観音は、今年開創300年を迎え
ご開帳のある年。
そこで今回は、羽黒山と観音巡礼についてご紹介したいと思います。
羽黒山と観音さま、といって
まず最初に思い浮かぶのが、開山伝承。
今日は開祖蜂子皇子と観音さまのお話です。
羽黒山・月山・湯殿山を開いたのは、
東北・関東・甲信越の三十三カ国を司る
羽黒山伏の開祖・蜂子皇子(はちこのおうじ)です。
父は、第三十二代崇峻天皇。
従兄弟にかの厩戸皇子(後の聖徳太子)がいます。
しばし開山伝承を紐解いてみましょう。
伝承によれば、皇子32歳のとき、人生に急旋回を告げる事件が起こりました。
父崇峻天皇が蘇我馬子の手によって暗殺され
皇子は大和から丹後の由良へ発ち、日本海へと遁れることとなったのです。
北へ北へ、皇子は日本海を敦賀、佐渡と北上し、
たどり着いたのがここ庄内の由良浜。
現在も、由良は新鮮な魚介類のとれる豊かな漁港として知られています。
さて長い航海の果てに現れたのは、洞窟を抱えた巨きな奇岩。
波打ちに舞う八人の乙女が皇子を招き、ようやく旅の帆は畳まれました。
当時、庄内平野は大きな湖を形成していたと見られています。
数多くの出土品がこれを裏付けるほか、
庄内にある藤島、京島、渡前などの地名はその名残なのでしょう。
皇子は再び舟を走らせました。
このとき、天空から皇子を導く大烏がいたといわれています。
山添という地に着岸すると、八咫烏(ヤタとは大きなの意)に導かれるまま
皇子はやがて羽黒山にたどり着きました。
そして深山幽谷に籠もって、修行が始められたのです。
羽黒山の奥深くに、阿久谷という秘所があります。
皇子はここに坐し、来る日も来る日も
般若心経を誦し続け、羽黒権現を感得されました。
そして心経を念じ安置する仏像を彫刻されたのが
観音菩薩だったのです。
翻ってみると、そもそも般若経は
「観自在菩薩はこう言われました」で始まりますし、
蜂子皇子は能除仙(能除太子)ともいわれ
その御名も同じ心経の「能除一切苦…」に由来しています。
ここに羽黒権現が観音さまであること
(権現とは仏が神さまの姿となって現れることをいいます)
羽黒山と観音さまのつながりが始まったのでした。
つづく
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開祖蜂子皇子が偲ばれる場所もご紹介いたします。
羽黒山を詣でた方はよくご存知かもしれません。
山頂の三神合祭殿から数百メートル離れたところに建つ
皇子のお墓です。
明らかにここは周囲と異なる空気が感じられ、宮内庁の地となっています。
また、合祭殿の左には蜂子の命社という古風な社があります。
ここは蜂子皇子が初めて出羽三山を開いた人として祀られており
開山堂ともいわれています。
さらには、山頂より月山道をしばらく行った処にある吹越(ふきこし)神社には行者の姿をした皇子の像が安置されています。
しかしこれは羽黒修験道の修行・秋の峰入りをしたものしか
知ることはありません。