いにしえの羽黒山を辿るU その3のレポートです。
前回、破尺堂から吹越を巡った歴史探訪の旅は
荒澤寺へと向かいます。
秋の色彩が綾をなしてきれいですね。
苔むした参道が落ち葉を縫って一行を導きます。
途中にはアップダウンのある場所も。
写真に見えるのは、おそらく元児坂(もとちござか)。
奥州出身の稚児、藤松丸に由来する坂です。
藤崎丸は幼年より羽黒山夏一(げいち)阿闍利(あじゃり)に仕え
仏に身をゆだねていたといいます。
しかし容貌がきわめて美麗だったため
山中の僧等が奪い合った末に命を落とすこととなり
頭は皇野(すべの)に、そして骸が納められた場所が
児堂となりました。元児坂は児堂の跡地なのです。
道行けば、しばらくして荒澤寺が見えてきました。
境を示すように門前を流れるのが、影見川(かげみがわ)。
文字通り、その名の由来は自分の影を見ることから。
石橋の上から水面をのぞき、自分の姿が映るようであれば
六根清浄のひとつであるから極楽往生うたがいなく
影が映らなければ罪障深重であるからこの流れで垢離をかき
身を清めなければならない、と。
垢離をとることなく渡った皆さんでしたw
いよいよ荒澤寺です。
荒澤寺とは、聖之院・北之院・経堂院の総号で
羽黒山の奥の院として常火堂を管理していた所です。
山中でも特別な扱いを受けていて
女性の参詣が許されなかった場所なんですね。
明治10年女人禁制がとかれるまでは
この他にも女性が通れない参詣道があったのです。
ほどなく左に見えるのが地蔵堂。
さて、なぜお堂の後ろで解説されているのでしょう?
十八世紀の資料にはこうあります。
入峰のとき堂の後ろより拝するのは
男子は母の胎内に宿るとき内に向かって左にあるからという。
母の胎内すなわち堂であり、男子はすなわち地蔵尊である、と。
内に向かって左=堂の後ろ側ということなんですね。
この地蔵尊とかかわりがあるのが臂切不動明王です。
『羽黒山縁起』には次のようにあります。
開祖能除太子が月山を開き大日如来を拝した後に
その身から出た炎が太子に燃えつき、太子の三毒を消滅させると
天に昇り、宝珠となったという。
太子は宝珠を携え衆生のために荒澤に納め、
不動尊と地蔵尊を本尊とした。これが今の常火である。
常火がすぐに消えてしまうのを見た地蔵尊は自らの額から
火を出し、不動尊は自らの臂(ひじ)を切って法火とした。
それ以後火は絶えることなく燃え続けている、と。
写真がその常火堂です。
かつては峰入りの火は全てここから持っていきました。
また集落の人が亡くなれば、その家の火はけがれたものと考え
新しい火をもっていったのも、ここからだったといいます。
女性が禁制とされたのは
こうした火の浄性を守るためだったといわれています。
続く。